2013年03月08日
軽便鉄道 その1
今回は大山田芋畑と軽便鉄道の歴史をご紹介
します。
かつて沖縄には、線路を走る鉄道がありました。
「軽便鉄道」です。
軽便鉄道は1914年に、那覇~与那原間で
開通し、徐々に線路を増設して行きました。
本土より小型で、線路の幅が小さい可愛らしい
汽車。
軌道間が76cmしかないものでした。
アフィー!と汽笛を鳴らし走る様子を
歌った沖縄の童謡もあります。
お客も運びましたが、貨物も沢山運び、
(ウージの刈り取り時期には貨車にいっぱい
に積まれていました。)
小さいながらも、戦前の沖縄の人々にとって
頼りにされていました。
しかし、戦争により軽便鉄道は失われてしまいます。
大山では、軽便鉄道が走っていた線路跡が、今
でもそのまま道路として使われています。
大山田芋畑のすぐ上を通る道路です。
ケービン道とも呼ばれています。
道路は58号線(家具屋さんが多く並ぶ)と
大山田芋畑の間にあります。
[現在のケービン道]
現在、大山田芋畑を横断する形で、新たな道路が
できるそうで、ケービン道の上をまたいで建設が
進んでいます。

[建設中の道路と、ケービン道]
この道路ができると、田芋畑の景色も随分変わって
しまうでしょう。
さて、このケービン道路から見える田芋畑の風景は
こんな感じです。

田芋畑が広がっています。残念な事に放棄地
も近年増えてきていますが・・・。
先程の、建設中の道路が右側にちらりと写って
いますね。
では、戦前の軽便が走っていた頃はどの様な風景
だったのでしょう。

[戦前の真志喜駅周辺]
今と変わらず、のどかに広がる水田を見下ろす
様にして軽便は走っていました。
ただ異なるのは、当時は稲の田んぼ。
田芋栽培が盛んになるのは、戦後の事です。
戦後、安い輸入米が入ってきて米の価格が
下がり、換金作物と言われた田芋に切り替える
農家が増えた為です。

[戦前の大山駅]
大山駅です。大山周辺で刈り取られたウージが、
嘉手納の製糖工場へ運ばれていきました。
通勤通学の足としても活躍していた事でしょう。
どうでしょう?
戦前の大山の風景と現在の風景。
軽便鉄道は失われてしまったけれど、
大山のターブックヮ(田んぼ)は今も
そこにあるのです。
ケービン道に立ってみて、戦前のくらしを
想像してみるのも面白いかもしれませんね!
今回の記事を作るにあたり「沖縄軽便鉄道」
という本の絵を使わせて頂きました。
軽便鉄道の各駅の様子を再現した絵が
沢山載っています。
ページをめくる度に、戦前の沖縄のくらしを
身近に感じることのできるオススメの本です。
今失われつつある、本来の沖縄の姿も感じ
ることができるでしょう。

出典:「沖縄軽便鉄道」
絵 松崎洋作
文 ゆたかはじめ
発行所 有限会社 海鳥社
掲載を快諾してくださった、ゆたかはじめさん、
松崎洋作さん、海鳥社さん、ありがとうございました!
那覇市の料理店「てだこ亭」のみどりさんも協力して
下さり、ありがとうございました!
「てだこ亭」では、田芋料理もたまに
出るらしいですよ(^O^)
大山と軽便鉄道のお話、まだまだあるので
「その2」に続きます~m(_ _)m
お楽しみに!
します。
かつて沖縄には、線路を走る鉄道がありました。
「軽便鉄道」です。
軽便鉄道は1914年に、那覇~与那原間で
開通し、徐々に線路を増設して行きました。
本土より小型で、線路の幅が小さい可愛らしい
汽車。
軌道間が76cmしかないものでした。
アフィー!と汽笛を鳴らし走る様子を
歌った沖縄の童謡もあります。
お客も運びましたが、貨物も沢山運び、
(ウージの刈り取り時期には貨車にいっぱい
に積まれていました。)
小さいながらも、戦前の沖縄の人々にとって
頼りにされていました。
しかし、戦争により軽便鉄道は失われてしまいます。
大山では、軽便鉄道が走っていた線路跡が、今
でもそのまま道路として使われています。
大山田芋畑のすぐ上を通る道路です。
ケービン道とも呼ばれています。
道路は58号線(家具屋さんが多く並ぶ)と
大山田芋畑の間にあります。
[現在のケービン道]
現在、大山田芋畑を横断する形で、新たな道路が
できるそうで、ケービン道の上をまたいで建設が
進んでいます。
[建設中の道路と、ケービン道]
この道路ができると、田芋畑の景色も随分変わって
しまうでしょう。
さて、このケービン道路から見える田芋畑の風景は
こんな感じです。
田芋畑が広がっています。残念な事に放棄地
も近年増えてきていますが・・・。
先程の、建設中の道路が右側にちらりと写って
いますね。
では、戦前の軽便が走っていた頃はどの様な風景
だったのでしょう。
[戦前の真志喜駅周辺]
今と変わらず、のどかに広がる水田を見下ろす
様にして軽便は走っていました。
ただ異なるのは、当時は稲の田んぼ。
田芋栽培が盛んになるのは、戦後の事です。
戦後、安い輸入米が入ってきて米の価格が
下がり、換金作物と言われた田芋に切り替える
農家が増えた為です。
[戦前の大山駅]
大山駅です。大山周辺で刈り取られたウージが、
嘉手納の製糖工場へ運ばれていきました。
通勤通学の足としても活躍していた事でしょう。
どうでしょう?
戦前の大山の風景と現在の風景。
軽便鉄道は失われてしまったけれど、
大山のターブックヮ(田んぼ)は今も
そこにあるのです。
ケービン道に立ってみて、戦前のくらしを
想像してみるのも面白いかもしれませんね!
今回の記事を作るにあたり「沖縄軽便鉄道」
という本の絵を使わせて頂きました。
軽便鉄道の各駅の様子を再現した絵が
沢山載っています。
ページをめくる度に、戦前の沖縄のくらしを
身近に感じることのできるオススメの本です。
今失われつつある、本来の沖縄の姿も感じ
ることができるでしょう。
出典:「沖縄軽便鉄道」
絵 松崎洋作
文 ゆたかはじめ
発行所 有限会社 海鳥社
掲載を快諾してくださった、ゆたかはじめさん、
松崎洋作さん、海鳥社さん、ありがとうございました!
那覇市の料理店「てだこ亭」のみどりさんも協力して
下さり、ありがとうございました!
「てだこ亭」では、田芋料理もたまに
出るらしいですよ(^O^)
大山と軽便鉄道のお話、まだまだあるので
「その2」に続きます~m(_ _)m
お楽しみに!
大山田芋ファンクラブへのご連絡は下記アドレスまで。
ooyamataimo@gmail.com
Posted by ターンム at 13:55│Comments(0)
│大山田芋畑の歴史